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南相馬市の状況変遷。そこは「今は」ゴーストタウンではない【4/20~5/3の記録】

恐らく全ての被災地について言えることかとは思うが、地震と津波に加えて原発事故の影響も強く受けることとなっている南相馬市の模様も、時々刻々と移り変わっている。そこで何が起き、何がどのように動いて行っているのか、その詳細は遠くから眺めただけでは分からない。当然、誰かによって編集、演出された「報道」を鵜呑みにするほど愚かしいこともない。

無論私が今こうして書いている文章も、一人のボランティアから見た南相馬市の情景であり、そこには意識的にせよ無意識的にせよ編集と演出という操作は入り込んでくる。可能な限りバイアスを取り除きたいとは考えているが、例えばコップに半分はいった水を「まだ半分もある」と表現するか「もう半分しかない」と表現するかによって印象が変わるように、完全には払拭できないことは最初から認めねばなるまい。なのでむしろ自分の印象、心情、感想を語るときには可能な限りそれがそうと分かるように努めるつもりだ。その上で、数多くある情報のうちの一つとして「参照」してもらえればと思う。

最初に、訪れて文章を記している自分のことを一通り伝える。背景や目的を伝えることで私という人間のバイアスを掴みやすくなると考えるからだ。私はこのブログのトップにも書いているように、3年4ヶ月の世界放浪を終えて今年の3月末に帰国した。帰国理由は地震ではなく別の個人的事情による。その事情にある程度目処がつき、帰国後の新しい職を探す前の空白の時間帯を利用して大震災に対して何かアクションを起こしたいと思い、南相馬市でのボランティアに向かうこととなった。南相馬市を選んだのは県外ボランティアを受け入れていた、数多くない自治体の一つだったということ。そして原発問題、放射能への危惧があって、仙台や石巻に比べてこの地を訪れるボランティアの数が比較的少ないということを知ったためだ。

そして実家の栃木県から、一通りの装備を携えて4/20に南相馬市へと赴いた。ボランティア参加の詳細については別記事に掲載してあるので興味のある方はそちらを参照して欲しい。
http://sinx.exblog.jp/16259690/


4/20
この日は朝4時半に栃木県を出発し、東北自動車道二本松インター経由で南相馬市鹿島区に向かった。前夜からの悪天候の制で飯舘村付近は真っ白な雪に覆われていた。避難所での寒さ対策の難しさの話などを聞いていたので非常に心配になる。峠は無事に越えることができ、南相馬市に到着することができた。

鹿島区の中心は原発から31kmを越えた辺りに位置しており、屋内退避・自主避難区域から外れていたため少ないながらも車の往来はあり、若干の個人商店、それにセブンイレブンは開店していた。それでも閑散としていて閉まっている店の多さをひしひしと感じることとなった。この日瓦礫撤去にお伺いしたお宅も30km圏内ぎりぎりの位置にあった。この時点では30km圏内のボランティアによる瓦礫の撤去は許可されておらず、そのため中心部の原町区ではなく鹿島区での作業がメインになっている。

ボランティア終了後原町区の知人宅に向かう。6号線を南下すると道路のすぐ脇に船が流されてきて座礁している光景を目にする。それでも海から3kmあるせいか、6号線を越えて津波の被害を受けているエリアは南相馬市ではほぼ見ていない。車の往来はそれなりにあるが、30km圏内に入ると個人商店も含めてほとんど閉鎖されている。一軒開いていたトンカツ屋には車が何台も止まって食事をしている姿が見えた。原町区に入って見かけたダイユーエイトは食品部門が閉鎖され、営業時間が短縮されていたがそれでもホームセンター部門は開いていた。実際自分の家が被災すれば必要な物はたくさんあるはずだ。

原町区内の商店、スーパー、レストラン等は軒並み閉店。まだ黄昏時だというのに車の往来もほとんど見られず、ゴーストタウン状態だった。


4/21
再び鹿島区で瓦礫撤去を行う。この日も街の様子はほぼ変わらず。車の往来はやはりある。知人の話だと20km圏内の自宅に物を取りに帰ったりといった理由で避難所や避難先から来る人が結構いるのだという。

ボランティア後、同じ班のメンバーに連れられて、相馬市との境に近いラーメンショップに行く。ここは営業時間こそ短縮されているけれど営業している。あつあつのラーメンを食べることができた。

また、鹿島区のフレスコキクチという現地資本のスーパーが開いていた。南相馬市で唯一に近いのではないかと思われる開店中の大型スーパーのため、非常に利用客が多い。中に入ってみても、震災直後のように陳列棚が空っぽ、ということは一切ない。「がんばろう南相馬」の張り紙がなければどこにでもある日常風景と見分けがつかないほどの品揃えだった。値段については手元のレシートを見ると

・エリンギ 78円
・ブロッコリー 68円
・とまと(中玉) 158円
・小松菜 158円
・コロッケ 1個50円(がんばろう南相馬特価)
・お刺身用赤味カツオ解凍 153円(本日のオススメ品)

と、悪くない価格であると感じる。通常のこの辺りの物価を知らないので大きなことは言えないにせよ、どれも食べて美味しかったことは付け加えておく。

6号線は夜になっても車の往来はそれなりにある。店はまだまだ閉まっている。ただ、一つ難を言えば6号線上23km地点にあるヤマダ電機テックランド福島原町店の看板の明かりが営業もしていないのに全力で煌々と照っているのはやめて欲しいと思った。節電しろと言いたいのもあるが、一縷の望みをかけて空っぽの駐車場に飛び込んだときの落胆といったらもう、裏切られた気持ちでいっぱいである。

この日、知人宅に戻ると当日の深夜12時をもって20km圏内が警戒区域に指定され、立ち入りが全面禁止になることを知った。


4/22
この日、20km圏内が警戒区域に指定されるのと同時に20km~30km圏内に出されていた屋内退避・自主避難の指示が解除された。それと同時に南相馬市内の同エリアの多くが緊急時避難準備区域に指定され、南西部を中心に、飯舘村に近い山間部が計画的避難区域に指定された。30km県外のプレーンなエリアと併せて、南相馬市内にはこれから四つの区域が同時に存在することになった。

この日は雨で瓦礫撤去ができないため、知人に街を案内してもらうこととなった。6号線から東、海岸沿いに向かうと高低差や地形に応じて状況はばらばらだが、やがて津波に襲われた場所に出る。報道で繰り返し繰り返し見てきた景色だが、実際に目の当たりにするとその凄まじさには言葉を失う他はない。全てが押し流され、瓦礫と化し、分厚く泥を被っている。家々の跡は判別もできず、田園は濁った海水の沼になっている。

その真ん中をどうにか瓦礫を避け、復旧された道が走っている。自衛隊車両、警察車両、作業車両、一般車両、数こそ多くないが様々な車を見る。雨の中でも自衛隊は遺体捜索を行っている。一列に並び、棒を持ち、沼地を探っている。様々な自衛隊論があるかもしれないが、ここで見た彼らとその働きに対しては尊敬と感謝の念以外はあり得ない。

海岸沿いの被害は北上し、相馬市にまで変わらず続いている。途中何度かある丘陵地にある家は、瓦が落ちたり塀が倒れたりこそしているものの軽微な被害で済んでいるものが多い。もちろん、インフラが切断されていればそこに住み続けるのも容易なことでないだろう。実際そうしたエリアもあちこちに見受けられた。

相馬市は放射能の問題が南相馬市に比べて遠いためか、復旧は順調に進んでいるという。港湾部の津波の被害は甚大だが、中心部には車が溢れ、人の姿も南相馬市に比べたら遥かに多い。店もレストランも多くが営業を再開している。ボランティアの数も全然多いようで、順調に復興が始まっているという印象を持つ。


4/23
この日も雨のため、24km地点の原町区のボランティアセンターでボランティアの口を見つける。遺留品の展示業務を行うこととなった。原町区内の会場で作業をしていて、昼食時にどうやら近くの商店街の焼肉屋がランチ営業を再開するという話を聞く。

行ってみると、メニューを制限し、ランチ営業だけだけれど、今日から再開したという。まだまだ人気のない商店街、支援になればと美味しくいただいた。




そして、この頃から徐々に街の雰囲気が変わり始めた。

車で街を走っているときに八百屋や肉屋といった個人商店が日に日に店を開け始めた。洋品店、靴屋、喫茶店にラーメン屋、Barまで一日ごとに新しく開いている店を見つけることができるようになっていった。

やはり、「屋内退避・自主避難指示」の解除が大きかったのではないかと地元の人は言う。それまで屋内でなにもできなかった人たちが表に出始め、近隣の市町村に避難していた人たちがこれをきっかけに地元に戻ってきたという。実際に、一時は7万人の内、1万5千人しか残っていなかったという南相馬市の人口は、5月頭には3万人から4万人にまで戻っている。罹災照明等、必要書類の申請のために人々が戻ってきて、市役所前には行列ができるほどになった。4月末には郵便配達のバイクも再び見られるようになった。日常生活が一つずつ南相馬市に戻ってきているように感じた。

そして、25km地点のフレスコキクチの原町区の店舗も4/29に営業を再開した。30km圏内の大型スーパーの営業再開は初めてのはずだ。もちろん棚にはしっかりと商品が並び、多くの買い物客が訪れた。この日はGW初日ということもあり、ボランティアセンターは県内外からのボランティアで溢れた。避難していた人もこの時期に続々と戻ってきたり、一時的に南相馬を訪れたりしていて、市役所付近は渋滞さえ起こるようになっていた。市役所駐車場の入り口には「満車」の看板を持った警備員が常駐するようになっていた。

地元資本のレストランや個人の店はどんどん営業を再開する一方、大型チェーン店はそれでもまだほとんどが沈黙を守っていた。レストラン、ファーストフード、電器店、洋品店等、6号線沿いの多くの巨大店舗は空っぽのままだった。コンビニもセブンイレブンを除いてはどこのチェーンも営業を再開していない。そんな中でようやくGWに入ってCOCO'sが営業を始めた。

そして、GWの半ばから終わりにかけて、5/4にヨークベニマルが、5/6にはイオンモールが営業を再開したという。イオンモールに関してはモール内のジャスコで、NPOとボランティアの手で地元の声を伝える番組「いっとこ/南相馬チャンネル 」が連日放映されている。
http://sinx.exblog.jp/16306792/





ただし、だからといって南相馬市が「復興」へと舵を切ったと言い切ることは全然できない。この街には最初にも述べたとおり、原発、放射能問題、という特異な要素が絡んできている。それにより現在20km圏内の地域は立ち入ることさえできず、30km圏内も現時点では日常生活を送れるかもしれないけれど、何か事態が変化したら急ぎ避難しなければいけないというのが日々の状況として存在している。

そのような中で、腰をすえて南相馬市で仕事をし、生活をして復興へと全体重をかけて臨めるのか、というのが大きな問題になってきている。さらに五月末までに避難を行うように勧告されている飯舘村は南相馬市の西に当たり、このエリアが五月末以降どのように運用されるのかもまだ決定事項としては周知されていない。もしここが20km圏内と同じように立ち入りが禁止、制限されたら?それは南相馬市の物流にとって非常に大きな痛手となる。

実のところ、福島市や郡山市の三分の一程度しかない放射能の危険性よりも、原発問題全体が南相馬市で生きる、という生活上の選択そのものを圧迫していると言ってもいいかもしれない。このまま南相馬市にいることで、生活していけるのだろうか?暮らしが成り立っていくのだろうか?それはただの茫漠とした「不安」などではない。実際上の不確定要素なのだ。原発がどのように、いつ頃収束するのか。そもそも収束するのか。東北道へと続く飯舘村、川俣町には入れるのか、そして来年以降の農業は制限されるのか。あまりにもそうした要素が多い。

今何とか南相馬市は踏みとどまり、踏ん張っている。でも、そこにかけられる力は原理的に他の被災地とは違う。どんなに南相馬市民が力強く、粘り強く踏ん張ろうとも、その地盤が全く安定しないのだ。原発事故は事故が起こってそれで終わりではない。長い長い始まりなのだ。そして状況は連日変化していく。もしかしたら明日にも大きな変化や指示があるかも知れない。それは、南相馬市民には分からないことだ。

だからこそ国民レベルで見れば息の長い、継続的な支援が南相馬市には何よりも大切であり、政府としては迅速で明確な支持とそれに対する責任あるサポートが必須となる。


現状について私の知っている限りのこと、考えたことを記した。だがそれも一週間前までの状況をベースにしたものであり、最新ではない。例えばGWが終わり、あれだけ集まっていたボランティアも再び数が減っている。これからも数は減るだろうし、それによって変わってくる状況もあるはずだ。あくまで参考として、この文章が役に立てばと考えている。そして誰か一人でも、南相馬市のこの現状に対してアクションを起こす人が増えればと祈っている。
by djsinx | 2011-05-10 12:56 | 震災関連
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