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ヴィパッサナー瞑想について


ヴィパッサナー瞑想について言葉を紡ぐことが正しいのかどうか分からない。ここで得た何らかの気付きだったり感触というものを言語化してもそれが何かの役に立つのか、もしくは有害なのか、判断に迷うところではある。

ただ、多くのヴィパッサナー未体験の日本人(もしかしたら他の国の人もだが)がこの瞑想について何らかの誤解をしていることは疑い得ないと思う。そしてこの誤解は特に海外でヴィパッサナー瞑想を受けようと思ったときに足を引っ張ることになる。

まず、瞑想の目的であるが、これはただ一つ、「仏陀になること」である。リラックスするためでも心の平静を得るためでもない。自らの持つ欲望の根っこを残らず引きずり出し、それを捨て去ることだ。ヴィパッサナー瞑想の特徴として多くの人が知っている「10日間誰とも喋ってはいけない」「目を合わせたり会釈もしてはいけない」「男女は厳格に分けられて会えない」というのは全てがそのための準備段階の約束事でしかない。大切ではあるが瞑想の前提という位置づけなのだ。

そしてもちろんこの瞑想は仏教に深く根ざしている。ゴエンカ師はこの瞑想が仏教という宗教のためのものではないと仰っていて、実際にそれは間違いではないが、ここで使われる発想の多くは仏教に由来している。四苦八苦、八正道、唯識、煩悩、仏教の中心概念が色濃く現れてくる。手塚治虫の「ブッダ」なり、高校の倫理の教科書程度でも前もって復習しておくといくらかはヴィパッサナー瞑想の理論と技法について理解はしやすくなるかと思われる。もちろんいろいろ関連本なり仏教の基礎についての本を読んでいればさらによい。知識が瞑想をするのに邪魔になるとかそんなことはまったくない。そんなものが邪魔と感じるならまだまだ自分の瞑想が未熟なだけのことだ。

もうひとつ大きな誤解は「誰とも喋ってはいけない」という決まりがあることから、この瞑想を素朴な、とても非言語的なゆったりとした瞑想だと思ってしまうということだ。何も喋らず何も考えず、じっと座っていると思ったらそれは大間違いだ。毎日1時間のDVDかテープでのゴエンカ師の講話があり、それ以外の瞑想の時間にもテープで細かく指示が入る。そしてそれらの指示に対して細かく意識的に集中して瞑想を行う。それは多くの人にとって困難であるし、苦痛でもある。そこに正面から立ち向かわなくてはヴィパッサナー瞑想はどこにもたどり着かない。

そして海外で行う場合、日本語のテープが存在しているかどうかの確認が重要になる。十分な英語力と仏教に対する前知識がない状態でテープを聞いても残念ながら何も理解できないし、このテープの内容が分かっていなければヴィパッサナー瞑想は全く意味がない。それほど重要な話をしている。事前の情報収集とテープの有無の現地への確認、手配を怠るべきではない。

なお、ゴエンカ師の英語はもちろんインド訛りの英語なので、英語で受けても問題ないと考えている人もその点は注意すべきだ。また、英語の表現についてもヨーロピアンや英語を母国語とする人の間でも議論になるほど特殊な言葉の使い方をしているようだ。日常言語と哲学、宗教的言語の違いとでも言うべきか、そうしたニュアンスまで含めると正確に理解するのは簡単なことではない。毎日先生への質問が許される時間がある(この時だけは喋ってもよい)ので、極力その都度分からないことは質問し、解決するように努めるべきだ。

だが、実際に終わってみて、最初に想像していたものよりもっと深い理解や気付きがあったのも事実だ。内容については詳しく語るつもりはないが、苦痛や困難の正面から、この瞑想に挑む価値は十分にあると感じる。

Have a Nice Meditation.
by djsinx | 2009-06-18 23:27 | 旅情報
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