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真理の探究 0

宇宙には究極の真理がある。

果たしてそれは本当だろうか?そもそも真理とは何か、宇宙とは何を意味するのか、
そういった定義すら考え始めれば正確に定めることはできない。恣意的に何かを
切り取り残りを切り捨てる、大なり小なりそういった作業の末に残るのは
そのものの姿ではなく人間が自らのために整えた取り扱い様の概念に過ぎない。

ではどうしたらいいのか?定義の周りで堂々巡りを繰り返すのが賢いとは言えない。
少なくともそれだけに終始するのは時間の無駄だ。人間が今まで積み重ねてきた
成果を踏まえ、そして自らの直観に信頼を置きつつも客観的にその自分を見る目を
失わない。その上で真理へと近づくことにする。

忌むべきこととしては擬科学がある。偽科学とも呼ばれるが、自らの直観を補足する
目的で各種科学の成果を勝手に自らの発想に当てはめて、それがさも科学的な
裏づけがあるかのように振舞う愚行だ。そもそも科学は真理を語る言語ではない。
定量可能、測定可能、反復可能、そして反証可能な物事を取り扱う学問だ。
その外側にあるものは科学の対象外となる。プロとサイエンスという立場から
真摯にそうした分野に挑戦する試みに敬意を払い、その成果に注目しつつも
そこに留まることはしない。


真理を語る上でまず忘れてはならないこと、それは自らが人間であるということだ。
定義の部分でも語ったが、人間が宇宙を見、真理を語ろうとする時、何をどのように
取り扱おうとそれは人間を通して把握され、理解された宇宙であるということだ。
人間の持つ直観形式から外れた事象は決して理解されえない。不可知である場所と
不可知ではないが未だ知られていない場所、その境界線を探すことが当面の
目的となるだろう。
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by djsinx | 2001-09-11 23:59 | 真理

真理の探究 1.0 -個は全である-

知りうることと知りえぬことの境界、もちろん知りうることの全てを未だ知らざる
人間にとっては推し量ることしかできない。ただし、不確定な領域に星のように光る
直観に拠って導かれし物事を辿ることである種の俯瞰を行うことはできる。

それが先入観となり我々を縛るのか、それとも何らかの手がかりとなるのかは
分からない。しかし、パズルのピースをはめるようにそこにある種の構造が
見つかるかもしれない。それは考察するに値するものだ。


まず、一つの直観から始めよう。




・個は全である。




どこにでもある分かりやすい悟りかもしれないけれど、直観である以上
ここから始めることにする。これを戯れに等式であらわすとこうなる。

    1=∞

繰り返すがあくまで戯れだ。この式を正しいとまじめに言い出したら既に
擬科学といって差し支えない。

一番大切なのは個というもの、つまりは人間の基準となる単位の一つである
この個である。有性生殖という種としての繁殖の単位である2や
社会性生物としての群ももちろんあるが、物理的な生命体として最も
身近なものは個としての1が挙げられる。ここを出発点として考えを進める。
そして問題はこれが何処に繋がり得るかということだ。

個が外側に向けて広がることは自明だ。肉体という入れ物の外側に対する
興味、関心、そして関係性。それは他の人間であり、取り巻く環境であり、
食物、天敵、気候等の生物としての関心事から例えばこのような真理への
アプローチといった極めて人間的な欲求に基づく抽象的なものもある。
時にそれは自らが強力になり、支配することへの欲求と繋がることもあり、
恋愛感情や愛情となることもある。また、憎しみによって外界と関係することも
多く、それが最終的には暴力となって死や悲劇を生み出す。だが、人間は
外側に向けて関係せざるを得ない。最低限呼吸をして食事をしなければ
生きていくことはできないし、それらを行うためにも外部環境との接触は
不可欠である。

では、そうした最低限の自然環境を含めた所謂目に見える外部と超自然的なもの、
真理のような目に見えないものとの接触の違いはなんだろうか。

まず、自然や人間等の「目に見える」ものは五感で捉えることができるか、
もしくは科学的な手法に基づく論理によって把握することができる。
たとえパラドキシカルだったとしても「誰に対しても示すことができ、理解させる
ことができるものと考えることもできる。

一方、目に見えないものはこれらの共同認識を超える。体験した人にだけ分かる、
気付いた人にだけ把握できる、何らかの個人的な体験を元に構築されるが
それが万人に理解できる感覚や論理を超えているためそうした目に見えないものに
接触したことは「悟り」「気付き」等の言葉によって語られることになる。
無論これは明確な判断基準がないことにより誤解や勘違いの宝庫でもあり、
仏教で言えば「魔境」とされてここに捕われてはならないとの言及もされている。

擬科学というものが存在する理由の一つもここにあり、自らの体験を裏付ける
ために科学というものの成果に頼ってこうした「悟り」に肉付けをする。
無論それは自分が納得するためだけではなく他人にそれを信じ込ませるためでもある。
結果的にオカルトビジネスやカルトの布教の際の体のいい道具にされている。
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by djsinx | 2001-09-11 23:58 | 真理