ネットとマスコミの間で自分のバランスで歩くってこと

「□□であることが科学的に証明されています」とか「◯◯先生が仰っていました」とか「××と言われています」、「△△だそうです」みたいな話を、(真偽に関して検証の余地のある)ひとつの意見としてではなく真理として受け取ってしまうのって何が欠落してるんだろうな。

3.11以降、お花畑や放射脳たちが散々これで批判されてきて、俺も批判してきたけど、そのお花畑や放射脳をあざ笑い続けていたネトウヨも「在日特権ガー」とか同じようなパターンに陥って無様なことやってるし。「ググれカス」って言葉はあっても結局誰も実践してないってことなのか。まあ、だからこういう言い方になってるのかもしれんがw

とりあえずインターネッツ抜きでは語れない高度情報化社会の現代としては

・ググって複数のサイトを読む(自分の気に入らない考え方のも含む)。
・出版物として編集、出版された本(電子書籍でも)を読む。
・一次情報を自分で調べる。


くらいが現実的なところなのかね。実際自分でやってみる、体験してみる、まで行けたらいいんだろうけれど、なかなかそこまでのライフスタイルを確立するのは万人にとって簡単なことではないし。

簡単に情報が手に入ってしまう、そして発信できてしまう現状なのに、「情報として発信されている以上、正確なものであるに違いない」っていう新聞、テレビ、出版社が情報発信を担っていた時代の感覚がまだ残っているんだろうなっていう気がする。

「マスゴミの情報は支配者にコントロールされている!」っていう話もある程度分かるし、偏向もしている部分があるとは思っている。でも、そもそも論になるけれど、それ言ったら客観的な報道ってこと自体が幻想でしょう。すべての情報は編集されるし、演出される。ひとつのデータから反対の結論を導き出すことなんていくらでもできる。

だから全ての情報はその辺を「折り込み済み」で読み取らないといけない。情報リテラシーって言葉が出てきたのは随分前の話だけれど、そういう基礎的な筋力みたいな部分が抜け落ちている人が多すぎるんじゃないだろうか。

最初の話で言えば、個人ブログやFB、Twitterなんかでの個人の書き込みはコントロールされていない生に近い情報を伝えてくれる可能性はあるけれど、正誤や信頼性、データの裏付けが担保されていない、もしくは発信者の信頼性によってしか担保されない。出版物であれば複数の目によって推敲され、検証され、出版社やテレビ局の名前によって担保される。もちろんそれでも間違いはあるし、客観的ではない。

「私は自分の信じたいものを信じる」だけならもうその人の勝手だし、正直話し合いの余地はほとんど残されていない。でも、そういうカルトみたいなところに入り込むのではなく、他人や社会とコミュニケーション取りながら生きていくつもりなら、「ネットで真実」みたいなところと「テレビが言ってるから」の間のバランスを自分で取れるようにならなきゃいけないんじゃないのかなって思う。
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by djsinX | 2013-06-04 08:54
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