今回獏原人村の満月祭に参加していた中日の8/12に南相馬市にボランティアに行ってきた。前に行ったのがちょうど2ヶ月前、あの後南相馬市はどのように変わっているのか、変わっていないのか、これからどうなっていこうとしているのか、知りたいことはたくさんあったし、これまでボランティアを続けてきた遺留品展示場に微力でも手伝いができればと考えてのことだった。
朝一番に川内村を出て399号を通って飯舘村に向かって北上する。5月に来た時に見た道路の破損は今もカラーコーンが置かれているだけでそのままになっている。もちろん浜通りのあの状況に比べればかすり傷だし、手が回らないのは言うまでもないが、その事実が重い。 でもそれ以上に目に付いたのは「特別警戒 防犯カメラ作動中」の看板があちこちに立てられていたことだ。住民の避難したエリアで空き巣狙いが横行しているという話は何度も聞いていたが、生々しいほどにこの看板が立てられている。そして、パトロール中の福島県警のパトカーも何度も目にした。震災直後の日本人の行動は世界中で称賛されたが、これをやっているのも同じ日本人だ。 体制が変わっていて原町VCは南相馬VC原町支部となっていたが、受付、登録のフローはこれまでと変更はなかった。人数はお盆前の平日ということもあって人は結構多かった。ニーズは次々と埋まっていく。ここで継続して入っていただいている地元出身のリーダーの方とも再会し、展示場の業務に入る。受付の市役所の女の子も元気そうだった。 現在の作業は結構複雑になっていて、以前のようにただ洗浄されてきたアルバムや写真を展示するだけではない。スペースの関係からばらばらの写真はミニアルバムに分類して収納し、陳列しているし、アルバムは暑さや湿気からカビが生えて劣化が始まったために、それぞれ乾燥させてからミニアルバムに移し変えている。既に展示されていたものも状態の悪いものは移し変えを行っている。簡単な洗浄もするが、既に写真の劣化が激しいため水は使わず、刷毛で表面をきれいにするのが関の山なのが現状だ。以前訪れた隣の相馬市の写真が、全て水を使って洗浄しても大幅な劣化が少なかったのとは対照的であり、南相馬市の原発から近く、遺留品の収集が遅れてしまったという特殊性を嫌でも感じる羽目になる。 昼食は各自持ちだが、遺留品関係の現場では、地元で活動するNPOがボランティアのために弁当の出前を行っている。ここで買うと100円が支援のための募金となる。美味しくて好評のようだ。 午後も継続して作業を行う。どうやらお盆に入ることもあり、帰省している人がかなり多いようだ。6月に来た時よりも人が多い。川内村の温泉に行った時にもそういった一時帰宅の避難者の方々をずいぶん見たし、飯舘村ですら車が止まって人がいる家があったのは、恐らくそういう理由だろう。 無事に作業が終わり、「関西ボランティアのための南相馬ガイド」の新しい版を作るためにVCで話を聞く。9月に入れば震災から半年となる。仮設住宅の建設も進んでいるため、ニーズはこれからも変化していく見通しだという。放射能があり、原発が収束していない段階で南相馬市に人が残ること、特に乳幼児や妊婦が生活を続けることの是非の議論はもちろんある。でも、だからといってこのまま手を引くわけにもいかない。出ろと言うだけなら簡単なのだ。出られるようにするための橋を架けなければただの空論に過ぎない。そして出るにしてもその準備が整うまでは手は必要なのだ。 帰り際、満月祭での賄いの食材を買うために立ち寄ったフレスコキクチは相変わらず人で溢れていた。地元の人もいればボランティアできている人もいるだろう。駐車場では県外ナンバーもちょくちょく目にした。物不足はもう過去の話のように見えるし、実際スーパーでは何銘柄かのタバコを除いたら欠品はないと言っていい。ただし、大手のレストランやファーストフード、電気屋などで撤退した企業もある。今戻っていないということは、大きく状況が変わらない限り戻るつもりはないということなのかもしれない。 個人商店やローカルの企業等は比較的営業しているように見えた。もちろん震災以前を知らない分、比べようはないのかもしれない。ただ、原町の商店街のシャッター街を見て「人のいない見捨てられた町」だという感想をBlog等で述べる人も見たけれど、これは震災の影響というより、それ以前から過疎化によって寂れていたためだと地元の人に言われた。もちろん震災で店を閉めた人も南相馬を離れた人もいるのは間違いないが。 そしてもちろんこの過疎化、少子高齢化はこの震災にも大きな影響を与えている。もともと働き手や子供が少ない状態で、震災によって妊婦や乳幼児を抱える家族が南相馬市を離れれば、復興や再建は厳しさを増す一方となる。早急過ぎると批判を受けながらも桜井市長が帰郷を求める理由にこういった昔からの事情があるのは間違いないと思われる。 ただ、20km圏内の小高区を丸々失ったのは非常に大きな痛手でもある。このエリアには工場等の働くための場所が少なからず位置しており、そこが使えなくなったことで再建できない仕事もある。もちろん津波で被災したエリアもある。それによって雇用の再創出は容易ではなく、中長期的に見た時に南相馬市で生計を営んでいくことが可能なのか、先が見えないと感じる層も少なくないと思われる。加えて農業に従事していた層の雇用も新たに創出しなければならないと考えた時に、それはやはり難しい話である。 南相馬市に住むということと、根を張って住み続けることは簡単にイコールであるとは言えない状況なのだと感じる。上に挙げた話以外にも、例えばいわき・東京方面に伸びる国道6号線は復旧の見込みも全く立っていない。震災以前から陸の孤島だと地元の人も感じていたようだけれど、震災後は物理的にそれが加速している。10年後、20年後、例えば子供を育てながら住み続けること、そのヴィジョンを描きながらどこをどのように復興していくのか、真剣に考え始めなければならない時期に入っているのだと思う。容易な話ではない以上、目を背ける訳にはいかない。
by djsinX
| 2011-08-20 15:15
| 震災関連
|
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