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選挙で投票=民主主義ではない。 多数決=民主主義でもない。

選挙で投票=民主主義ではない。
多数決=民主主義でもない。

どちらも民主主義の中の機能のひとつでしかない。多くの人の意見があり、それらを議論して妥協点なり落とし所を見つけて可能な限り多くの人が納得できるようにするプロセスが民主主義だ。そしてその集団の構成員全員が民主主義の参加者だ。

要するに「チャランケしようや」ってこと。でも1億人以上が一度に集まることはできないから間接民主制として代議士を選び、議会で議論してもらう。それを選ぶのが選挙であり、私達が一票を持って投票する。

そして利害が対立する人は必ずいるからすべての議論が満場一致になるわけではない。どうしても埋められない対立がある時に、議論を尽くした上で意思決定をする最終手段が多数決だ。

もちろんこのプロセスにはものすごく時間と手間がかかる。多くの人が利害関係を持って関わることで宿命的に腐敗もする。でも、それこそが民主主義の安全弁だ。のろまで退屈なことを民主主義の欠陥という人もいるけれど、それはこの上なく重要な長所である。

誰かが大きな支持を背景にやりたい放題やれないようにする。影でこそこそ知らない間に物事を決められないようにする。気付かないうちに急いで処理できないようにする。だからこそ私達がチェックし、監視し、声を上げて反対する事もできる。

そしてそうした構成員各自によるチェック、異議申立て機能も含めての民主主義だ。民主主義は議会内にだけあるのではない。私達全ての中にあるのだ。

今回、秘密保護法案を巡るこの数日国会内で起きたことは民主主義の抹殺だと言われている。それは安倍自民政権が議論を尽くし、最適解を求めるというプロセスを蔑ろにし、多数決というシステムを濫用しているからこそ言われている。

結論ありき、法律成案ありきで慣例や慣習も破壊し、国会を与党の政策成立のための機関に貶めようとしている。これはファシズムと呼ぶに相応しい蛮行だ。そこには民意の集約も慎重な審議もない。報道ステーションで古舘が「民主主義が死んだ」と評したことが話題になっているが、それはこういうことだ。

だがしかし、議会内で民主主義が抹殺されようと、その外ではまだ民主主義は死んではいない。私たちがいる。私たちが声を上げて反対の意志を示し、行動し続ける限り、この国の民主主義は死なない。例え秘密保護法が成立しようと、安倍ファシスト政権がどれだけ暴走を始めようと。

日本国憲法第十二条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」とある。

民主主義が完全に死ぬとしたら、議会の外にいる私たちがこの憲法違反を犯すことだ。ファシストの出現に対し、不断の努力を怠り、沈黙し、行動せずにのんべんだらりと日常を過ごすことだ。

国会前に行ける人は行って声を上げる。無理ならば情報を広める。議員や政党に対して電話、メール、FAXなどで意見を伝える。地方の抗議行動やデモに参加する。やれることはいくらでもある。

それらをやらずに絶望してファイティングポーズを崩したり、そもそも政治なんて関係ないとそっぽを向いた時、民主主義は本当に死ぬ。その先に何があるかはおじいちゃんかおばあちゃんにでも聞いてみるといい。大正デモクラシーの後、治安維持法ができてどのように第二次世界大戦まで突き進んだか、中学生の時の教科書でも読みなおしてみるのもいい。

そんな未来をあなたは望むのか?あなたの子供に味わわせたいのか?答えは黙っていたって誰も聞いてくれない。声を上げ、行動で示せ。
by djsinX | 2013-12-06 16:51
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